弘進会宮田歯科の歴史
宮田歯科は1947年に北品川に誕生しました。現在、本院がある場所です。
品川駅港南の高層ビル群を望みつつ、旧東海道の品川宿のなごりを残す町並みの中、都会ながら落ち着いた雰囲気のある所です。
創業者、宮田庄三郎は、当時の日本の歯科治療の現状を嘆き、「このままでは、日本人の口の中はいつまでたっても、いっこうに良くならない。」と考え、自身も押し寄せる患者さんの治療に追われている中、後進の育成に力を注ぎました。
現在、当グループで修行を積み、開業した歯科医師は1000人を超え、日本各地でその腕を皆様の「お口の健康」のために奮っています。
また、「予約診療」「歯医者の週休二日制」など、当院を発祥とするものも多いのです。
上の写真は弘進会宮田歯科開院60周年記念祝賀会の模様です。
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年表
S22(1947)年4月 | 創業者・宮田庄三郎が北品川に宮田歯科医院開設 |
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S34(1959)年2月 | 品川駅東口に高浜歯科医院開設 |
S35(1960)年8月 | 南武線上平間駅に川崎歯科医院開設 |
S35(1960)年4月 | 法人化し、医療法人社団弘進会発足 |
S43(1968)年8月 | 東京タワー前 機械振興会館に第二診療所(旧)開設 |
S45(1970)年4月 | 五反田 TOCビルに第一診療所開設 |
S47(1972)年10月 | 五反田 TOCビルに技工研究所開設 |
S49(1974)年7月 | 港区芝浦(田町)に第三診療所開設 |
S50(1975)年8月 | 港区三田(赤羽橋)に三田診療所開設 第二診療所(旧)を併合 |
S51(1976)年8月 | 新馬場に南品川診療所開設 |
〃 | 技工研究所をドエル・ワコーに移転 |
S52(1977)年3月 | 第一診療所 拡張 |
S53(1978)年11月 | 品川駅高輪口に第二診療所(新)開設 高浜歯科医院を併合 |
S55(1980)年6月 | 南池袋(池袋東口)に池袋診療所開設 |
同年11月 | 三田診療所、三田国際ビル3Fから2Fへ移設 |
S56(1981)年4月 | 船橋診療所開設 |
S57(1982)年3月 | 三田診療所に第三診療所を併合 |
S62(1987)年2月 | 大崎TOCビルに大崎診療所開設 南品川診療所を併合 |
〃 | 技工研究所を北品川に新築、移転 |
H2(1990)年12月 | 船橋診療所閉院 |
H8(1996)年2月 | 第二診療所(新)閉院 |
H10(1998)年3月 | 第一診療所閉院 |
H11(1999)年1月 | 創業者 宮田庄三郎死去 |
同年2月 | 宮田修 理事長就任 |
H11(1999)年12月 | 三田診療所に大崎診療所を併合 |
H12(2000)年2月 | 「宮田庄三郎先生を偲ぶ会」開催 約200名参加 |
H17(2005)年4月 | 三田診療所大幅改装 |
H18(2006)年9月 | 本院を全面建替の為取壊し、完成まで三田診療所に一時併合 |
H20(2008)年4月 | 新生本院(宮田歯科医院)竣工 5階建「クレードル元渚」の1、2階に |
開院60周年と併せ祝賀会開催 約150名参加 5月診療再開 | |
H21(2009)年12月 | 池袋診療所を東口五差路傍 南水ビルに移転、新診療所開院 |
H27(2015)年7月 | 三田診療所を三田国際ビル2階よりアネックス棟へ移転、 新診療所開院 |
現在に至る |
創設者 宮田庄三郎について
出身地
山形県
経歴
大正4年:4月17日生まれ
昭和17年:日本大学歯科医校卒業
昭和20年:日本歯科医学専門学校卒業
昭和22年:宮田歯科医院開設
昭和35年:医療法人弘進会発足
患者さんの声
「存在感があって、声も大きく、どこにいてもあの先生の声聞こえたな」
「若い先生には厳しいことを言っていたな。こっちが恐縮したよ」
「この入れ歯20年、30年ももっている、死ぬまで使える入れ歯だよ」
「あの時レントゲンを診るなり『こりゃダメだ、抜きましょう』と言って、『歯が無くなるとこうなるんだ』と言い、いきなり自分の口から総入れ歯を出し、歯がどれだけ重要か言ってから入れ歯の講義を長々として下さいました。」
「最後に入れ歯の歯を削り始めたんだよ。あの時お金も大変だったんだけど、今になってみたら安い買い物だったなぁ。とにかく、全て、すごい先生だったよ」
「歯を抜いた夜9時ごろ自宅に電話がきたときありました。『血止まったか、痛くは無いか』と言って、止血や術後痛など様子を伺う電話を下さったんです。歯を抜いて電話をもらったのは初めてだったので感激でした。」
「ここのブリッジ40年ぐらいになるかな」
などなど、自慢げに我々に患者さんが話してくれます。
患者さん第一と言っていた宮田庄三郎の人となりが今も通院いただいている患者さんの声で判断できます。
また、組織は人材なりと言われますが、スタッフへの気配りもすごかったと言います。仕事への熱意が感じられないスタッフにはすごい勢いで叱られたそうです。
しかし、叱った後は誰でも気分のいいものではありません。『退職願が出たらどうしようなどとその夜は一睡もできなかったよ』と聞いたことがあります。
次の日、出勤するなり、すぐ、叱ったスタッフの出勤状況を確認したそうです。そして、同じ仕事をすぐ任せたと言います。
以前、松下幸之助に関する本の中に、松下が独立し、初めて採用した従業員が初出勤の日、きてくれるか不安になり、工場の門の影で見張っていたそうです。
そして、その人影を確認すると『きたきた!来てくれた!!』と奥様と大喜びをしたことが書いてありました。その文章を思い出されました。